企業研修の感想文・体験談
天光寺企業研修 感想文|40代 男性
今回久しぶりに研修というもの受けられる機会を得た。
この歳になると教える側にまわることが多くなり、このような機会は少ない。急にセッティングされた研修だったが、ある面、喜んでいる自分もいました。しかし実際に研修に来てみると、これも予想していたことではあるが大変なものでした。
ここ天光寺は真言宗ではあるが単立です。
お寺ですが、葬式や、お墓はありません。建立の目的は、うつ病の人の心の病を救ってあげる事から始まったそうです。
その延長線として企業研修による精神的研修を行うよになったようです。
ここで私は社会人生活30年を振り返ると、最初はとても甘いものでした。入社した昭和63年三光精機でNC班に配属されました。
今、考えると、金型加工を体験できていたことも自分の財産です。
この頃は、指示された加工作業を実施するだけで、途中の鉄くず清掃ぐらいしか頭は使いませんでした。有給休暇で連休を取り、旅行に行ったり、休憩するためにタバコを吸いだしたりといった新人です私の一人目のターニングポイントは、入社2年目の冬だったでしょうか、たまたま作業中に足を滑らせ、骨折してしまいました。
労災による思わぬ連休。こんなに休んで給料はあるんだろうかとも思いましたが、頂いた給料額に初めて会社へ感謝したことを覚えています。
この後、私は現場上がりで初めて金型設計に転属となります。
ここでは3年以上いましたが。私の技術の基盤であり、翌年以降設計に配属した方々へ私の失敗談を話して気を付けるよう指導したことが教育の始まりとなったのです。
その後、事務勤めとなり技術(生産準備)となり、設計もしていたエアコン関連を中心に業務していました。ここでも3年程だったでしょうか…ある日、面識のない他県の営業課長が肩をたたいてきました。
これが2つ目のターニングポイントで、それからすぐ営業となり、国内転勤で名古屋営業所(旧岐阜工場)と吹上営業所をまわる事になります。特に吹上では、OA関係の仕事に就き、現在上海にいる中村さんと毎日のように仕事をするようになりました。
営業ですが、品質対応をしたり、組み立て作業標準書を作成したり、これがまた私のプラスになっています。このころが最も会社をやめたくなっていた頃です。毎晩帰りも遅く頼る人間があまりいなかった為ですが、一緒に苦しんでいた東京営業所の中村さんのためにも頑張ろうとやり切りました。まさかその中村さんが昨年私の後任で上海に行くことになるとは、このころは思ってもいませんでした。
30歳手前で富士のテクニカルセンターに戻り技術に復帰しました。
このころから海外SVに行くようになります、初めてのSVはシンガポールのSTSです、OA支援で続けて通算三カ月以上いたように思います。初めて海外ローカル外注とも対話し難しさを知りました。
金型知識を認めてもらい指示を受けてくれるように変化したのを覚えています。この時に書いた海外での金型修正指示書が、帰国後社内で評価されていたと後から聞こえてきましたが、これで三つ目のターニングポイントだったのでしょう。その後はH/Gを十年取り組み、サイクルを半部に上にしたことや、成型技能士となって、受講者を教育していたことで大きな評価ポイントです。
そして、今に至る最大のターニングポイントが2013年の上海出向です。四年間の中で過去最高益となり社長にもなりました。自分の人生ここでピークなのだろうと考えていましたが、昨日インドネシアSTI社長に転覆するとは、これまた驚きの出来事でした。上海はオフィスですがインドネシアは工場で社員300人です。どう取り組んでいけばよいかわかりませんでしたが最終的には現状を見てから考えていこうとポジティブシンキングとなりました。
今インドネシアでは、自分のこれまでの経験が生かされています。技術畑という事があり不足改善点がすぐに百件以上、頭に浮かびました。比較的、人の話は聞き、納得した良い面だけ吸収してきたため多範囲での指導が可能となり前期減収の中で、対策を打った分だけ利益を残せたと考えています。
話を研修に戻します。滝行から、お百度参り、写経等初体験ばかりの中、3禮がとにかく辛かった、体力的には自身もなかったわけだが、これは心が折れるかどうかの修行だと受けとり、どうにかやりとげましたが、本当に体全身がバカになったように痛いです。しかし、出来ないであろうという事をやりきった事で、自分自身の目的であった、今一度見つけ直す、精神の集中はこの研修で達成できたと言えます。
自分を信じて今後もつき進みます。絶対に今より向上する未来が今の活動の後にやってくるはずだ。今後いっそう頑張ります。