体験修行の感想文・体験談
体験修行 滝行・宿坊 20代男性
一泊二日の滝行修行を申し込んだ。目的はいくつかある。誕生日前に滝に打たれることで、新たな気持ちで年を迎える。だらけた生活に気合を入れる事。辛い経験をすること。
最後の目標は、中学時代の野球部の夏連の様な、あの経験の辛さに勝るものはない、そんな経験を得たかった。終わってみて思う事は、主体的に、積極的に滝行を選んで行動を起こした心が立派だったと思う。天光寺に仲間と向かう車中では、笑い混じりながらも「無理だ」「本当に入るのかな」「嫌だ」など後ろ向きなことばかり話していた。実はお百度参りが終わって、滝に向かう時にも同じような言葉を口にしていた。滝行は無事に終わったが、後ろ向きな言葉をやめて「やるぞ」「負けない」などの前向きな言葉を発しながら望めばもっとたやすく滝行を達成できたように思う。これは今後の生活でも同じ。実際に滝に打たれてみて感じた。体験前の想像では、寒い冷たい、そして痛い。この三つの感覚があるとばかり思っていたが意外だったのは息苦しさだった。水に足を浸し神に挨拶をして顔と胸に水をかけ、頭から水をかぶる。サウナの後の水風呂でさえ全身を付けられないほど冷たいのが苦手な自分にとっては、水をかぶった段階で自分を褒めたかった。滝に進める足も意気揚々となる。いける。そう思えたのはものの2~3秒だった。苦しい。冷たい。だが冷たさは想像の範囲内である。苦しい。頭に容赦なく浴びせられる水しぶきのせいか滝の流れのまわりだけ酸素が薄いのか先ほど生まれたばかりの「いける」という期待は滝に蹴落とされていった。息苦しさの為に、唱える御宝号もはっきりと一音一音の発声が叶わない。そんな自分の声を聴いて情けなさを感じる。こんな時でもともに参加している人からどう見られるのかを気にする浅ましさがなおさら情けない。
いけるのか?いや、もうだめだ。いける。いや、無理だ何度も何度も自分の中で弱い気持ちと強い気持ちがぶつかる。辛すぎる。いや、待てよ。辛い体験を求めてここにやってきたのではないか。予想をはるかに越える辛さではあるが、望み通りのものを得ている。やるしかない。水の中でやっと覚悟を決めた。できることは叫ぶだけ。叫んだら終わった。
滝行の後、友人は気分を悪くしていた。あの滝に打たれたついでに弱い気持ちを置いてきたような気はする。あれだけの辛いことは、この先出てくることはなかなかないだろう。
しかし、人は忘れやすい。あの辛さを覚えていられるのはもって1ヶ月だろう。人は無意識をコントロールできない。呼吸、脈動、胃腸の動き。これは勝手に無意識がやってくれることだ。だが、共に無意識は気持ちを損ねる。体調不良になり、生活のうるおいが減る。無意識が上手く働いてくれるような生活をすればいい。運動や整理整頓気持ちをまっさらにすること。自分自身を愛しなさいという教えの中にはきっとこのようなことも意味として含まれているのではないだろうか。1日目の夜は疲れ切っていてすぐに眠りに落ちた。
2日目の朝は気持ちよく目が覚めた。久しぶりに二度寝をしなかった。爽快で誕生日だということも忘れていた。参加者におめでとうと言ってもらえて思い出したそのくらいだ。
修行の3つの目的は達成しそうだ。これからの生活をもって達成とする。そうそう、発声は持ち良かったので、どこかのだだっ広い場所でやってみる。