体験修行の感想文・体験談
体験修行 感想文|10代 男性
僕は不登校を半年ぐらい続けて、親がここへ連れてきました。正直、最初に住職の話を聞いた時は、この人何言ってる人だろうと思ってました。ここで、どれだけ過ごしにどころで学校なんて行きたくないと思ってました。最初の方はやる気はなかったです。でも行をしていくうちに、だんだんやる気が出てきました。
四日目で初めて川行をやりました。このときは、まだお百度参りを超めんどくさい茶番程度にしか思っていませんでした。そして、川行も正直余裕でしょ!くらいに思っていました。でも、いざ川に入ると想像を絶する冷たさにびっくりしました。本当「死んちゃうんじゃないの」というくらい冷たかったです。僕はすぐに出ました。出たら、さっきまで冷たかったはずの外がすごく暖かくて、ビックリしました。僕はこのとき「生きているんだな」と感じました。それでなぜか、すっきりした気分でとても不思議な感覚でした。
五日目は滝行でした。滝を初めて見た時予想よりはるかに少ない水量で「何だチョロイじゃん」と思いました。しかし、入ると昨日のような冷たさに加え、滝のしぶきが体全体に当たり、すごく痛かったです。何が何だか分かりませんでした。でもまた滝から出るとすごく暖かくて「生きてる」とまだ、感じました。
それとやはり数秒までは痛くてつらかったはずなのにすごく心がスッキリしている自分がいてビックリしました。
学校へ行こうとしっかり考えたのは七日目の土曜日です。それまで、色々な行やって色んな人と話して、今僕がおかれているこの時代がどれだけ大切なのかが分かってきました。僕はここに来る前学校というものの価値観、そして僕がしている事への危機感が全くに等しいほどありませんでした。でも今は、前に比べれば、分かってきた気がします。今は学校で勉強することよりも、学校に行こうという行為そのものが一番重要な気がします。それは同世代の人と話ができるからです。ここに来た大人の人達によく言われたのが、「大人になってあんな上下関係なしに話ができるところはない」です。そう言われると学校に行って友達としゃべってるだけでも人生においては相当な財産かなと思えるようになってきました。それで、どのような人も「中学の勉強はそれから先の基礎だから、しっかりやっておいた方が絶対にいい」と言われて、勉強が遅れている事に関しての危機感も覚えました。なので今は学校に行きたいです。
そして、学校の事以外にも色々な事を学びました。まず、仲間や友達など、周りにいる人の存在です。
今まで意識した事はありませんでしたが、どんな時も常に周りに同じ事をしている人がいました。ここでも、最初の一週間はそうでした。いつもAさんがいてくれました。しかし、いざAさんや短期の人がいなくなり、自分一人になると、すごくさびしいです。今までは行が終わって言われた「おつかれ」や「キツかった」などの一言がないからです。何かを共有する仲間がいないのはこんなに寂しいかと思いました。ここに来て、あたりまえが、あたりまえじゃないことに気付き、周りの人への感謝も覚えました。その周りの人の中でもやはり、家族への感謝が特に強いです。ここに来て自分が変われたのも家族がここを見つけてくれて連れて来てくれたからだし、家族が働いてお金を出してくれているからこそ、僕はここにいます。それに正直いつでも会えた家族にこんな長い間会えないのは寂しいです。だから、僕は家族がいる事への感謝、その存在の大切さがよく分かりました。それと、生きていることへの感謝も分かりました。今までに「生きていることに感謝しろ」と言われても訳が分かりませんでした。でも今なら分かる気がします。川や滝から出た後のスッキリ感や、暖かさや、中に入ったいるときの冷たさ、痛さ、も生きているからこそ分かることです。
それに、生きているからこそ、僕は今こうやって人生をやり直そうとしています。生きているというのは普通に考えたらあくまで大前提しかないですが、今こういう経験をすると、すごく大切なことなんだと思います。それに自分が自分を超える嬉しさも分かりました。今まで「自分を超えろ」と言われてもサッパリでした。しかし、今ではよく分かります。なぜなら、川行や滝行での目標が高くなっている自分がいるからです。最初はずっと最低ノルマでいいやとか思っていましたが、今ではタイムを伸ばすことを楽しみにしている自分がいます。チャレンジ精神ってこういうことかと思います。これから学校でも前に進み続けていきたいです。
僕は、天光寺にこれで本当によかったです。これからは周りへの感謝を忘れずに学校に少しずつでも行きたいです。ありがとうございました。