体験修行の感想文・体験談
30代 体験修行 男性
『天光寺に二日滞在して得られた事』
0.「行」の過程で変化する心の在り様について
初日、到着して間もなく所作の指導を受ける。なじみの薄い数珠や、頭の下げ方を主とする礼儀を学ぶ。昼食後はお百度参りから始まった。「南大師遍照金剛」を唱えながらの運動の行。その後は体験したことのない水温下での滝行。寺に戻ってからは呼吸と写経。これらすべての「行」が自分とっては初めての経験であり、すべてにおいてこれらの「行」を通じて何が得られるのか全くわからない中で、おもむろに「行」を始める必要があった。そこで自分の中に生じた心の変容は四つのステップに因数分解することができた。
1.「言われた通り」にやる
正座は痛い。言葉もわからない。コンクリートの上を走るのはしんどい。滝は冷たく、激しい痛みを伴い命の危機すらも感じる。一時間の般若心経の声出しでは意識が幾度となく遠のき、写経では手が動かなくなった。すべての「目的のわからない」行の第一印象は苦痛以外の何物でもなく、故に淡々と言われたことをこなすしかない。せめてもの救いは、すべては「唱える」という反復作業を主軸に成り立っていることだった。今何回やったのか、あとこれぐらいやれば〇〇回を達成できる。こういった小さな目標を立てやすいのは気を大いに紛らわせることができた。
2.「長く続けられるように」自分なりに適応する
小さなゴールだけでは気持ちを維持できない事に気付きはじめる。そこで今度は、辞めることができないことを受け入れ、長く続けられるように「行」の所作、心の持ち用で変えることにした。例えば滝行は、水の冷たさに耐えようとするのではなく、一度自分の体温が水温と同化するイメージにした。すると不思議と冷たさと痛みがスッと和らぎ「もう少し」長く居られるかもしれないという希望が見えてきた。般若心経では「発声」、写経では「筆の持ち方」、すべてに適応する呼吸法、すべてを自分なりに改善した。
3.心に余裕が生じ、自分と向き合う
行の反復に良い意味で意識を使わなくなると、自分の身体が拡張された感覚になり、自分の姿を第三者の目でフカンすることができるようになった。すると自分の中で溜まっているストレスや将来やるべき事への優先順位がついてくるような気がしてくる。圧倒されるような自然や、苦痛を前にした時、自分がこれまで抱えてきた困難が大したことのないものに思えてくる。この「行」の経験は天光寺でしか得られないものであったが、今後も日常的に意識して行ってみたいと思う。
誠にありがとうございました。