企業研修の感想文・体験談
企業研修 20代 男性
天光寺で、二泊三日の企業研修を行った。一日目、寺の到着後に目標を記した。そこで私は、「本当の自分を見つける」と記した。日常生活では、物事を傍観的な対応をしてしまい、ありのままで、自分の欲のほっするまま行動すること、自分を表現することが苦手であった。その中で、来年4月の就職に備えて、自分自身を見直し、将来を明るいものにしようと考えた。その目標を持って臨んだ三日目は、三つのことを学び、考えた。
まず、一つ。「幸せ」という言葉だ。先生のお言葉の中にも、幸せになりたいですか?という質問が何度も登場した。私は、これまでの二十二年間の中で「幸せとは何か」という問題にぶつかり、そのたびに答えの見つからない迷宮に迷い込んでしまう。幸せになりたくないかと問われれば、もちろん幸せになりたいと答えるが、幸せをどうとらえるかは人それぞれであり、私は、その明確な答えを未だ持っていなかった。この研修をとおして、絶対的な回答は見つけられなかったが、その形は見えてきた。自分が百年後に死ぬのか、来年死ぬのか、今日死ぬのかは誰にもわからない。それを分かって消極的に生きるくらいなら、当たって砕けても、積極的に生きた方がいい。つまり、目の前の一日一日、一瞬の時を必死に生きるしかないのだ。先の事を考えること、見通すことも大切だが、目の前の出来事に夢中に、本気になれないやつがそんな資格持つべきではない。だから、私は、一分一秒の重みを日々感じながら、毎日、明日死んでも後悔しないような生き方をしようと思う。その結果として、いつどんな形になるかは分からないけれど、「幸せ」が手に入るはずだ。そして、それが私の生きる意味になる。
二つ目は「限界」という言葉。目標の一つとして、「自分の限界を知る」というものがあり、修行の中で見つけようと考えていた。まず、感じた事として、世の中には物事を判断する時、二つのものさしがあること。一つは、他人が判断するものさし、もう一つは自分自身の心のものさし。限界は、前者でなく後者のものさしが振り切った状態を指す。滝行を含めた全ての修行の中で、私は限界まで挑めたか。答えはノーだ。周りの人に何と言われようと、自分が少しでも甘え、妥協した部分があったとすれば、それは限界ではない。いくら限界に近づいていても、限界ではないことは不変である。しかし、この三日間の修行で、限界に挑み続けたことは決して無意味ではない。その理由は自分を評価するのは、他人のものさしだからである。つまり、何を得たかというと、自分自身がストイックに自分を高めることは、自分を高めると同時に、他人にも見られることだ。だから私は、明日から結果という明確なゴールに向け、常に限界を目指し努力を続けたい。その結果、人と人の結びつき、人脈を形成し、舞台と役者を作り上げることにつながるはずだ。
そして三つ目は、「仲間」である。三日間のつらく苦しい修行の中で、何度心が折れかけたことか。でも、それを支えてくれたのは、共に頑張る仲間であった。声の掛け合い、仕事の分担、その存在そのものが、私の救いであり、モチベーションであった。憎むより愛する、力むより任せる、喧嘩するより仲良くする。この言葉は、私たちの団結をより一層厚くする心の持ち方である。人を信頼することは、簡単なことではない。裏切り、ねたみ、嫉妬、人と人は簡単にはつながることができない。でも、私たちならできる。この瞬間を共有し、同じ道を歩む私たちなら、必ずできる。この三日間で得た大切な宝物である。
「本当の自分を見つける」ことは、正直できなかった。目の前にたくさんの選択肢があり、どれが最善なのか、何をもって最善なのかそんな分かれ道に立ち止まっているのかもしれない。ただ、ここで得た経験は、私の背中を押してくれた。正解とか不正解とかではなくて、やることに意味がある。心の持ち方ひとつでそれにつながることを学んだ私は、本当の自分探しの一歩目を踏み出せたはずだ。生きる事、働くこと、学ぶこと、悩む事、目の前の課題は数え切れないほど存在する。「幸せ」、「限界」、「仲間」この三日間で得た一つ一つは、私を支える防具であり、武器になる。この経験は、絶対に無駄にしない。必ず大きな男になり、後悔のない人生を送る。